こんにちは。バゲと申します。日本の大学卒業後、フランスに大学院修士課程で来て、もう2年近く時間が経ちました。
フランスで生活をする中で、楽しかったこと、辛かったこと、いろいろなことを経験してきました。そんな中でも、差別と言われるようなことも少なからず経験してきました。
今回はそんな中でも、フランスにおけるアジア人差別について、私の経験から語っていけたらと思います。
フランス生活で受けた私がアジア人であるという理由で言動は果たしてどのようなものなのか。
一体「アジア人差別」と括ることにどんな意味があるのか。
フランスでのアジア人差別を通してどんなことが見えてくるのかを考えていきます。
記事の構成としては、
- 私と私の知り合いが受けたアジア人差別の経験談
- 「差別」についての考察
- 「アジア人差別」と括ることへの批判
というような構成になっています。
具体的に経験談を語るだけではなく、経験談をもとに差別というものを考えてみる記事構成にしています。
フランスに興味がある方、海外での日本人の立場に興味がある方、「差別」とはどんなことなのか考えている方など、さまざまな人に読んでもらえたらと思います。
また、記事で書かれている内容は個人的な経験、主観に基づくものです。ご了承ください。
私が受けたアジア人差別
まずは筆者をはじめに筆者の友達、知り合いを含め私の身の回りにいる人たちが、どんなアジア人差別的な言動の経験があるのか、紹介します。
筆者の経験談
- ホームレスに急に「ニーハオ」と言われる
- 物乞いに金銭をせびられ、断ったら「チンチョン」と言われる
- 日本食レストランで働いていると、「あなたは本物の日本人か」と聞かれる(差別かどうかは不明)
驚くことに、筆者自身はあまり差別的な言動を受けたことがありません。
滞在中にあからさまな悪意を持って何か言われたと言う経験は、全部で数回しかなく平和に過ごすことができています。
何か悪意を持って言われるようなことがあっても、ホームレスや物乞いに何か言われる程度。
正直に言うと、ホームレスのような人に何か言われても、そこまで「嫌だな」と言う気持ちにはなりません。
差別の経験が少ないのは、私が「男性」「背が高い」「比較的老け顔」と言うような理由もあると思います。
後ほどお話ししますが、自分と同じアジア人でも、特に女性は差別的な言動をより多く受けています。
また、私は日本食レストランでアルバイトしているのですが、たまに「あなたは本当の日本人か?」と聞かれることがあります。
フランスには日本人ではないアジア人が運営、経営している日本食レストランが多くあり、日本人の私としても許せないレベルの日本食を提供しているお店もあります。
そんな「偽の」日本食レストランかどうかを見極めるために、たまにお客さんの中に私たちに「本当の日本人か?」ときてくる人がいるというわけです。
アジアについて詳しくない人にとっては、私たちが日本語を話しているかどうかがわからず、直接聞いてくるというわけでしょう。
それでも、「本当の日本人か?」と言う質問が来ると、「はい。日本人です」と答えると同時に複雑な気持ちになります。
友達、知り合いの経験談
- ホームレス、物乞い、浮浪者に「チンチョン」言われる(多くの日本人)
- 街を歩いていてすれ違いざまに若い男性に「ニーハオ」とニヤつきながら言われる(20代女性)
- 公園で小さな子どもたちに、「両目で目を釣り上げる仕草(アジア人の目を真似ている)」(30代女性)
- 街中で若い男性に大声で捲し立てられる(おそらく下品な言葉)。(20代女性)
日本人女性の知り合いも多いのですが、彼女たちが経験している話を聞くと耳を疑います。
男性よりも女性の方があっという的に差別、ハラスメントを受ける機会が多く、その頻度も比べものになりません。
ひどい場合だと、一週間に一回は何かしらの言動を受けている人もいました。
あくまで経験的な観測にすぎませんがいろいろな人と話していると、男女、体格に関係なく、服装、メイクなどが、「フランスらしい」格好をしている人になればなるほど、嫌な言動を受ける頻度が少ないようにも感じます。
しかし、「フランスらしい」格好をしているといいことは、フランスに住んで長いと言うことでもあり、そもそも言動を「差別」と感じていない場合もあるので、なんとも言えません。
同じアジア人でも受ける経験は全く異なる
このような差別の例を通して見えてくるのは、差別的な言動をいう人は言う対象をきちんと見ているということ。
- 日本人、男性女性、関係なく、ホームレスなどからの、差別的言動は経験がある。
- 女性は、若い男性、子供からの差別的言動を、さらに受けやすい。
- 容貌がフランスらしい格好であればあるほど、差別は減る。
ここでわかってくるのは、差別的な言動をする側も、「言う相手」を見て考えているということ。
「アジア人である」と言う事実だけで、誰もが平等に差別的な言動を受け手いるわけではないと言うことに注意しなければいけません。
受けているのは「アジア人」差別なのだろうか?
「アジア人」であると言うだけで、みんな等しく差別を受けるわけではないと言うことを確認しました。
ここからは、改めて、差別的な経験を受けると言うことに見られる複雑な構造を考えてみたいと思います。
差別的な言動に隠れる、多層構造
差別的な言動は、その理由を一つに絞ることができるのでしょうか。
例えば、背の高い日本人男性が差別的なことを言われず、小柄な日本人女性がアジア人差別差別的なことを言われたとしましょう。
その差別的な言動は、言動こそアジア人差別ですが、明らかに女性差別的な視点もあるはずです。さもなければ、両者等しく言動を浴びせるからです。
言動には全てコンテクストがあり、そのコンテクストが言動を下支えしていると言えるわけです。
極端な例で言えば、ただ女性差別的な人が日本人女性に対して直接的に女性差別的な言葉を言うのではなく、「アジア人」であると言う側面を切り出して、言葉にしていると言えます。
「言葉とその真意は必ずしも一致していない」と言うことですね。
差別の「理由」は、コンテクストと受け手の受容による
差別的な言動をおこなう人間は、アジア人だからそのような行動を行ったと言うような一般化された考えのもとではありません。
目の前の人間が、「体つき」「性別」「服装」「歩き方」「言語」などの複合的な要素の中から判断し、言動に移します。
しかし、差別的な言動を受けた時、私たちは「なぜ今そんなことを言われたのだろう」と考えます。
言われた言葉がアジア人差別的なものならば、「私がアジア人だから差別された」と感じます。
言われた言葉が性差別的なものならば、「私が男性、もしくは女性だから差別された」と感じるでしょう。
つまり、差別的な言動をする人間と、される人間の両者が持つ「なぜ」は両者が対立的な構造を持っておらず、不均衡があるというわけです。
そのため、差別をする人間とされる人間との間には差別の理由の認識にズレが出ると言えます。
※注意:「差別は差別される方が悪い」と言いたいわけでは全くないので、ご理解をお願いします。
フランスに住む「外国人」として考えること
私はアジア人ですが同時にフランスに住む外国人でもあります。
私がアジア人差別的な言動を受けた時と、アジア系フランス人がアジア人差別を受けた時の感じ方は一緒なのでしょうか?
私は「日本人」であるという逃げ道
私たち在仏日本人には、どんなにフランスで嫌な経験をしても、日本人であり出身は日本であると言うアイデンティティがあります。
何か嫌なことがあっても、最悪「私たちがマジョリティである日本に戻ることができる」と言う考えを持つことができます。
批判を恐れずに言うならば、差別される側から差別をする側に簡単に移行することができます。
逆に、アジア系のフランス人にとってフランスは彼らの故郷であり、アイデンティティです。
彼らは差別的なことを受けたとしても、私たちのような感覚にはならないでしょう。
つまり、同じアジア人でも外国人として居住しているアジア人であるのか、本土のマイノリティとして存在しているアジア人であるのかと言う、両者には大きな違いがあります。
「アジア人差別」で括ることの是非
さて、アジア人として同じ考えを持っているわけではないということを述べました。
でもだからと言って、アジア人として括ることに全く意味がないのかと言うことになるかといったら、そう言うわけではないと思います。
それは、「アジア人」は見た目を指す言葉だからです。
フランスではアジア人は少数派である以上、街を歩いていると目につきます。
私もアジア人なので、同じアジア人を見かけると、「見た目が似ている」と言うことだけで共通点を感じてしまうことがあります。
見た目が同じアジア人でも、もしかしたら言語も考え方も趣味も違うかもしれないのに、勝手に共通点を感じてしまうのは、「見た目」の力でしょう。
見た目は簡単には変えることができないものであるからこそ、時に他人と同じものを共有していると言う感覚を強く感じさせます。
しかし、「アジア人である」と言う共通点を感じさせるとともに、「私は日本人であるが、彼、のしくは彼女は日本人ではないかもしれない」と言う差異を強く感じさせることにも繋がります。
「インターセクショナリティ」という考えかた
さて、このようにアジア人であると言うだけで、差別を受けることもあれば受けないこともあります。
同時に、何か差別を受けた時に、「こんな理由で差別されたんだ」と言う理解も大きく異なります。
つまり、同じアジア人でもその中の他のグループである「外国人か現地人か」「性別」「体格」「健康状態」「服装」「仕事」などによっても大きくその経験は異なります。
最後に、複数の要素が重なりあって起こる差別、抑圧を理解するための言葉として「インターセクショナリティ」と言う考え方があります。
「性別」「人種」「年齢」「社会階級」の各セクションで全く区切るのでなく、複合的な(インター)観点でさまざまな分野(セクション)の関係性から問題を探るという考え方です。
元々はフェミニズムから発生した言葉ですが、現代ではさまざまな分野で応用されています。
私自身、フランスに留学に来てから知った概念ですが、さまざまな文化事象や社会的な抑圧を理解する上で非常に役にたつ観念だと感じ、勉強している途中です。
社会にある複合的な要因で発生する「差別」、「抑圧」に興味がある方は、本を読んでみると面白いと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。